2010/08/12

Suica 大好き! 電子マネーの利用法?

今回、日本で覚えたことの1つに、「買い食い」がある。(Sweets story参照のこと)

「買い食い」と言うと、私の時代の中学生のようだが…、「買い食い禁止」っていうヤツ。実際、私の友人達は、中学時代、よくしていた。学校の近くの店で買ったものを学校に持ち帰って食べるスリル。もちろん、見つかれば、怒られるのだが。

私の「買い食い」は、ちょっと違う。得に、日本でのことだが、買いたい物、食べたい物があれば、母や父に頼む。頼むと、大概の物は、買ってきてもらえるのだが、時々、「そんな物、必要じゃありません。」などというニュアンスを匂わせる。こっちも、あまり嫌な顔をされるのも、なんなので、買ってきてもらえそうな物だけ頼む。

まあ、ここで、こちらとしては、少し、フラストレーションが溜まるわけですね。中学の時、友人達が、買い食いに走ったのも無理はない。

今回、日本に帰った時、うれしいことに、私でも、「買い食い」できる条件が揃っていた。

駅に自動販売機+Suicaが使える+私はSuicaを持っている。

手の不自由な私が、自動販売機を使うには、時間がかかる。コインを1枚ずつ入れなければならない。次の人を待たせる。言語障害のある私には、簡単に、そばにいる人に頼むわけにもいかない。

それが、Suicaならかざすだけ。簡単に、買えてしまう。

1人で出かけ、帰宅する時、缶コーヒー1本買って、家で、一服。42歳にしては、ささやか過ぎる楽しみであるが。両親も、何も言わず、缶に、ストローをさしてくれた。

でも、彼らは、怪しんでいたのだろう、両親と出掛けた際、例のごとく、缶コーヒーをゲットしたら、犯行現場を抑えた刑事のように、「あんた、こんなところで、買っていたのね。」と、苦笑いされてしまった。

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2009/12/10

アホな考えだけど、(電動車椅子普及委員会、草案)

言いたいこと、言ってしまうけど、

電動車椅子を、健常者が使ってもいいと思う。

例えば、夏の暑い日、東京。

外回りのセールスマンに、電動車椅子って、いいかも。

あと、子供連れのお母さん。後ろにかごをつければ、自転車より安全。

もし、電車にもスロープなしで乗れて、車椅子専用車両が出来、

ガソリン・スタンドや自転車屋でも、電動車椅子の修理ができれば、

かなり、普及して、車椅子の価格も劇的に下がるかも。

要するに、意識の問題なんだよね。

そうすりゃあ、私が、車椅子から立ち上がっても、誰も驚かなくなるだろうに。

そういえば、昔、私のアテンダントしてくれていた女の子、

お遊びで、私の車椅子に乗って、買い物に行ってたな。

車椅子で行くと、「カッコイイ黒人のお兄ちゃんが寄ってきて、高いところのものを取ってくれるの。」だって。

というかさー、TOYOTAのコンセプト・カー、i-Realと電動車椅子の区別がいまいち、よく、私には、つきません。
(それ言ちゃあ、終わりか)

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2009/12/08

歩くこと その1

歩くことが、好きである。

普段、外では、電動車イスに乗っているのだが、家の中では、歩いて移動している。もちろん、転ぶこともある。ただ、それれ、生活の一部となっていて、自分自身にとっては、別に、どうということもない。

外を、歩くことも、好きである。この秋は、Gちゃんという、最高のパートナーを見つけ、土曜日ごとに山に入った。と言っても、冬山とか行ってしまう本物の山屋から見れば、散策程度のものだろうが。登山靴を履いて、山道を歩くのは、気持ちがいいのである。時より、山道に顔を覗かせているゴツゴツした岩も、サクサク踏んでいける。もちろん、こんなことができるのは、Gちゃんの支えがあってのことなのだが。山道を、汗をたらして歩くことは、フランス料理のフルコースを頂くことや、良質の小説を読破するくらい満足感がある。

昔、子供の頃、母がしてくれた訓練の甲斐あって、少し、部屋の中を歩けるようになった。6歳の頃の話だ。だから、歩けるようになるまで、訓練には5年もかかっている。

小学校の高学年で、母や先生に背負ってもらって、長野の蓼科・八島湿原や、奥日光を経験した。その頃、体が小さく、身長1m20cm、体重20kgくらい。だから、背負ってもらうことができたのだろう。中学に入ってからも、体が、急に成長することはなかった。

小学校で、山の気持ちよさを知ってしまった私は中学で、丁度、その年に新設されたワンダーフォーゲル部に入れてもらった。むろん、初めから、山に行けるとは思っていなかったが、そういうものに触れてみたかった。もちろん、ワンゲルは、運動部だあり、毎日、トレーニングがある。顧問の先生の方針で、裸足で、校庭や外を走ることもあった。その頃、体が小さかった私は、蟻が大きな木の葉を引く力があるのと似て、運動能力はあったのだろう。学校の周りを4周、2km程度、50分かけて、走った?こともある。また、家から学校まで350mくらい、20分かけて、歩いて登下校していた。

高校に入ってから、体が成長したが、それでも、必修のマラソンは、男子の10km、1時間以内を、2km、1時間以内という設定にしてもらって、参加した。ちなみに、大人の平均の歩く!速さが時速4kmである。もちろん、母に見守られながら、走る?のであった。母に付き添われ、走るなんて、高校生にとっては、恥ずかしいのであるが、走らなければ?卒業できない。必死であった。

日本で、大学に入って、バスや電車など利用して、一人で歩きで出かけるようになったとき、案外、楽にできたのは、高校まで、体動かしていたからだと思う。駅の階段や電車・バスの乗り降りなど、中学や高校で行った南アルプスや八ヶ岳の岩場を思い出せば良い。自分で登ったといえば嘘になるが、登り方は知っていたし、駅の階段やバスのステップは、山の鎖場そのもののような気もしていた。

22歳で、アメリカに渡り、まず、大学付属の英語学校の紹介で、身障者学生の支援機関を訪ねたとき、即決で電動車椅子を貸してくれた。1ヶ月$100だった。その瞬間から、私の車椅子生活が、はじまった。電動車椅子に乗って、後ろにディバッグを背負わせれば、重い本でも、食料品でも運べてしまう。自立できるのである。時速5kmで、一度の重電で10km強、1日、デート?して街を歩いても平気である。デート?、いや仮の話である、仮の (相手は、歩いてばかりなので、かなり体力使うと思うのだが)。

とにかく、電動車椅子は、ママチャリ(婦人用自転車)のようでもあり、便利なのだ。

しかし、自分では、ママチャリ感覚だが、アメリカ人にさえ、歩くことができないかわいそうな人と、見られることが多いようだ。誰が、車椅子に乗っている人を歩けると、イメージできようか? 私が、家でやるように、うっかり車椅子から立ち上がろうとして、まわりの人を、慌てさせたことが、何度もある。言語障害があるので、とっさに弁解できない。そんな時、「本当は歩けるのに。」と思いつつ、車椅子に身を沈める。心も、沈んでいく。せっかく、自立するために、電動車椅子に乗ったのに、それが、裏目に出てしまうのだ。大好きな犬たちにも、車椅子が怖いらしく、逃げられることが多い。

電動車椅子を使い出してから、歩く機能も、驚くほど、落ちてしまった。今は、30分で500mが精一杯、転ぶことも多く、歩行に安定性がかけていると思う。電動車椅子を使う代償も、決して、軽くない。今にして、そう思う。

モール・ウォーキングなんていうスポーツも、あるらしいが、繁華街で歩いて、転べば、危険が伴う。まあ、社会の目、人の目も、そうやすやすとは、変わらない。もちろん、私が、歩く姿を見て、暖かい視線を送ってくれる方も、数多く入ることは承知しているのだが…

だからこそ、歩くことが、余計、楽しく、いとおしく、思う。山歩きは、本当に楽しい。いつか、Gちゃんと、スイス・アルプスの麓でも、4000m級の頂を眺めながら、えっちらおっちら、歩いてみたい。密かな、夢である。

「だからさ、毎日、ジムに通って、20分でいいから、エアロ・バイク、やりなさいよ。」って、聞こえてくるのは、空耳だろうか?

今の状態です。

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2009/12/03

Sweets story

今日は、ある会に参加したあと、友人にニジヤに連れて行ってもらった。

ニジヤで、かなり大量の食料を買い込んだ。今月25日に日本に立つまで、もうニジヤでの買い物は、もう、しなくても良さそうだ。

買い物の途中、その主婦をしている友人に、「お菓子とかは、いらないんですか?」と聞かれた。

確かに、自分の頭の中に、お菓子を買う、というのが、入っていない。別に、お菓子は、嫌いなわけではないが…

自分で、ニジヤに買い物に来ていたときは,『まず、必要なものを買うべし。』という鉄則があった。お菓子は、余分なものであり、必要とさせない。運ぶこともできない。よって、買わない。ある意味、私流・自立生活の厳しさである。

子供の頃は、どうだったのか? 母に言わせると、『あまり間食しない子』だったらしい。お菓子は、食べなかったと言うが? 私が、覚えている範囲では、お菓子は、食べれなかったというのが、本当のところだろう。まず、手が利かない私は、飴やキャラメルの包装紙を剥くことができなかった。要するにお菓子があっても、誰かがいなければ、口にできないわけである。そして、飴玉やキャラメルは、口に入れても、下を使うことが下手で、うまく転がせない。飴玉は、口にいれ、喉につまらせた経験があったかも。好きだったのは、桃の缶詰。やわらくて、甘くて、あまり噛まなくてよい。

道理で、昔、私の膝歩きや、歩行訓練に、桃も缶詰を利用したわけだ。部屋の反対側に桃の缶詰を置いて、あそこまで歩けたら、一つ食べていい。(もちろん、母が食べさせてくれるわけで、自分で食べるわけではないのだが。)一つ、食べたら、その缶詰は、部屋の反対側に持っていかれる。私が歩かないと、演技して、母が食べてしまう。それを、2往復くらいすると、もうお昼になる。今、考えると、私も、よく飽きもせず、こんなものに付き合ってられたと思う。

小学校に入り、少し立つと、お小遣い、500円くらい、もらうようになる。それで、パラソルチョコレートや、アイス・キャンディとか買って食べた。お菓子を買いにいくときは、大抵、母がついていくのだが。

中学に入ると、お小遣いがなくなった。私は、家計が大変なのかと思っていたが、大人になってから聞いたところによると、母は、「どうせ、買い物には、私が、ついて行ってお金を払うのだから、小遣いの必要はない。」これって、大人の言い訳だよね。お小遣いはあった方が良いと、思う。で、サイド・エフェクトとして、買い食い、および、賭け事、という遊びはできなかった。

高校は、3年間、母が付き添ってくれたので、下校途中で…という遊びとかできなかった。

かくして、お菓子とは、未だにあまり縁がない。

コーヒーは、飲むけどね。あれは、高校一年のバレンタインに好きだった女の子にもらったコーヒーカップが原因かもしれない。その後、数年間、毎朝、そのカップで、コーヒーを飲んでいたのだから。まっ、その話は、別の機会に。

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2009/11/12

PHPでの自己紹介。

一昨日の火曜日、San Joseにある、主に自閉症のお母さんの集まり、Parents help Parentsの日本語サポート・グループの交流会があり、参加してきた。お母さんと言っても、私と同年代で、クラスメートと言った雰囲気。ただ、私は、当事者なので、少し、微妙な立場なのですが。

交流会に用意した、自己紹介の文を下に掲載します。これから、徐々に、自分の昔について、振り返る記事を書いていきたいと思います。


茂森 勇 東京都八王子市出身 1968年3月15日 出生

生まれるとき、3日かかったらしい。難産のため、

付随運動を伴うアテトーゼ型脳性マヒ
(生まれる前は、健常者?たぶん、笑)

1歳で、病名がわかったらしい。その時は、まだ、寝返りも打てなかったらしい。

病名が分かり、寝返りから、母による、訓練開始。

「思い込んだら、試練の道を…」巨人の星って言う感じ。
板橋の整枝療護園に母子入園、3回
6歳で、捕まって、歩けるようになる。よく、夕方、

外で遊んでいると、庭の隅に立たされて、8mくらいかな? 歩いて、家まで入るように言われた。
訓練は、別にイヤだとは、おもわなかった。

学校は、初め、養護学校に入れようと、両親は、決めていたが、見学に行って、本人、つまり、私が嫌がったので、家から200mの普通校に。
当時、日本では、障害児が、普通学級にはいることは、珍しかったみたいで、テレビのニュースなどに出る。
でも、母の全介助が条件で、取り合えず、1ヶ月、置いてもらえればいい、という感じだった…らしい。

それで、いろいろありましたが、小学校、中学、高校も、普通の中で、やってきました。母は、毎日、学校に付き添ってくれました。
中学では、英語の先生に、無視されたり、多少イジメもあったかな?
だけど、部活でワンダーフォーゲルで、毎日、歩いたり、階段の上がり下り、山に登ったり、山では、たいがい、負ぶってもらいましたが。
http://sites.google.com/site/isamush01/last-hike  (英語)

高校も、何とか都立の普通校です。受験は、大変で、はじめ、障害者を受け入れることで、映画にもなった私立高校に、憧れて、見学に行ったのですが、中学の担任、副担任、学年主任の先生、校長先生と一緒に、行きましたが、私の障害が、重いということで、門前払い、そういうことが、いくつかあって、都立で身障者用エレベーターがついているところにしました。この学校も、厳しかったのですが。
また、山もやりました。
http://sites.google.com/site/isamush01/essay_yasu

高校で、数学と、物理に興味を持ったので、理系の大学を希望しまして、20大学くらいに受験の申し入れをしましたが、出願の段階で、ダメで、父の会社の上役の方のつながりで、拓殖大学の商学部の経営情報に、まあ、補欠で、入りました。
大学では、勉強もしました。簿記や経済学は、数学がベースにあるので、面白かったし、自然科学の先生のオフィスに入り浸って、パソコンで、ソフトを、書いたり…発表しませんでしたが。
大学1年の冬に、身障者のスキーの全国大会、誰でも参加できる大会だったのですが、参加して、そこに参加していた障害者が、みんな自立している人ばかりで、親御さんとか、介助者がついてきていたのは、私だけで、それから、私の親離れが始まりました。大学3年で、アパート暮らしして、卒業して、留学という形で、こちらに来ました。

バークレイの英語学校に1年。本当は、ストレートで、コンピューター・サイエンス専攻で大学院を狙っていましたが、学士が文系だったため、ダメで、大学も学位が邪魔してダメで、TOEFLのスコアを取って、コミュニティ・カレッジに2年、それで、バークレイのコンピューター・サイエンスの学部に編入。大学院を目指していたんですが、少し疲れてしまって、働き、始めました。最近、ORACLEに買収されたSunにインターンで入って、うまく採用してもらって、1998年から2003年まで、ベイ・エリアで、2004年から2008年までイギリスで勤めました。
2008年に、戻ってきたんですが、今年1月に、リストラで、職を解かれ、今は、学生ビザで、Sunnyvaleの留学生を対象にした工科大学
(専門学校みたいなところ?)の大学院に通っています。うまく行けば、再来年の春には、masterが取れるような感じで、再就職の口も探しています。

まだ、独身なので、ちょっとまだ、2人暮らしにも、憧れますが、こればかりは、分かりません。

Sunにいるときは、web開発や、バグ取りは、8年やりましたが、面白かったけど、何か、鍛えてもらえる機会が、少なく、いまいち、しっくりこなかったところがあります。私も、悪いと思いますが…

(ちなみに、これ書くのに3時間、かかった。なんちゃって。)

またいろいろ、お世話になると思いますが、今度とも、よろしくお願いします。

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