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2008/11/23

グランド・キャニオン/ラスベガス ー出会いと冒険の旅ー

(一部、成人文学的の表現を含んでおり、18歳以上の方を対象とした文章です。)
とても長い文章ですが、最後まで、お楽しみください。

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11月18日 Fate 出会い

日本から来ていた親戚のYちゃん、Tくん兄弟と、ラスベガス/グランド・キャニオンへ行って来ました。

18日、朝5:30に家を出て、サンフランシスコ空港から、8時の飛行機で、ラスベガスへ。9時半ごろ着き、空港内で、グランド・キャニオンツアーの集合場所を確認に行ったら、ツアーの添乗員の人に会い、頼んでくれていた車椅子が乗れるバンのタクシーが来て、一路、隣町、ボーダーシティのローカルな空港へ。ラスベガスのきらびやかなホテル街を抜けると直ぐ、あたりは、褐色の岩山がここかしこにそびえ立つ砂漠地帯。ベイエリアのやさしい風景になれていた私には、どこをみても、アートしているように、見えてしまう。空は、青く、気持ちが、地平線まで、広がっていく。「俺は、こんな風景を、求めていたんだな。」と思った。

しかし、    乗っているタクシーは、少しボロく、ドライバーは、レゲー風といたら良いだろうか、初老の男の人。まわりの風景は褐色。まるで、ハリウッドのコメディ映画の中にいるようだった。ある意味、それは、感動的であったが、車内で異臭がして、じきにタクシーがフリーウェイの路肩で停車。ドライバーが、「動かねー」などと叫んでいる。まさに映画のワン・シーン。それを、半分、笑いながら見ている私。一応、ツアー会社にも連絡をとってもらい、ドライバーは、あちらこちらと交信していたが、近くをもう一台の空の車椅子タクシーが走っていたようで、我々は、このタクシーに救助され、事なきを得た。

峠を1つ越え、12時前に、ボルダー・シティの空港に着いた。ここを出発するのが1時。空港の待合室も広くて売店もあるのだが、基本的にプレハブの小屋。窓の外に、岩山があるのがうれしい。以前、友達と、国立公園のいくつかを回ったり、父をイエローストーンまで、行ったことのある私は、「また、帰って来てしまった。」と言う懐かしい感覚に襲われた。小型のプロペラ機に乗るからだろうか、一人ずつ体重を計った。その後、売店で、マフィンとサイダーを買い、食べた。待合室の片隅には、手押しの車椅子が何台かあった。ここの車椅子があるなら、ここまで、電動の車椅子で来て、手押を1台、借りる方法もあったかなと思われた。

待合室で待っている間、他のお客さんも到着した。30代だろうか男1人女1人、それにちょっと、白髪の男性の3人の日本人のグループ。それと、色のあさ黒い、やさしそうなアメリカ人女性一人。ほどなく、時間が来て、記念撮影して、、プロペラ機に乗り込む。スロープのタラップを、上がり、車椅子は、あとでプロペラ機のノーズと言われる先端部分にしまわれた。

そして、離陸。つけているヘッドポーンから日本語のナレーションが流れ始める。すぐ、眼下には、コロラド川をせき止めているフーヴァー・ダムが見えてきた。ピラミッドより大きい建造物らしいが、もっと大きい岩壁に挟まれ小さく見えた。それに端を発し、ミドー湖が渓谷を埋めている。飛行機は湖の南側を飛んで、モハービ砂漠を越えると、いよいよグランド・キャニオンらしい、よこしまの入った、深くて、広大な渓谷が見えてきた。大きすぎて、言葉で表現できない。岩岩は、幾重にも重なり、渓谷の真上を飛んでも、目を凝らさないと、下を流れる川は、見えない。上部は、真っ平らな大地。砂漠だったのが、緑が見え初め、やがて、ブッシュとなり、1時間もしただろうか、飛行機は、高度を下げ初め、緑の大地に伸びた滑走路に着陸。

流石に、2000mの高地、外は、すこし寒かった。上着をおいてきたことを後悔する。ランチボックスを受け取り、観光バスに乗車。アメリカ人の運転手と、ちょっと見るとアメリカ人に見えてしまう日本人の男性のガイドさんが付いてくれた。私には、ちょっと懐かしいのだが、国定公園内の片道1車線の道を、ガイドさんの話を聞きながら進む。5分ぐらいでマーサー・ポイントについた。バスを降り、T君に車椅子の押してもらう。舗装されているが、砂利が多い道を進む。日本人のグループの一人、年長のOさんが、大阪弁で、話しかけてきた。大阪で建設会社を営む社長さんであった。まだ、45歳。とてもポジティブで経験豊富な人という感じ。少し若い男性が、Hさん。英語が出来、ラスベガスに住んでいる。女性のYさんは、Oさんのお供という感じ。

なだらかな歩道をみんなで、上がっていくと、展望台の入り口に来た。数段の階段を何箇所かあって、そこをクリアすれば、何百メートルの崖の突端である展望台の先端までいける。正直、こういうところは、私は、何度か経験があるので、待っていても良かったのだが、Oさんたちが、「手伝うから、一緒に行きましょう!」と言ってくれた。T君、Yちゃんに車椅子を持ってもらい、Oさんの厚意に甘え、支えてもらいながら、下りて行った。突端まで行って写真を撮る。

しかし、グランド・キャニオンは規模が違う。本当かどうか分からないが、ここだと、人間の声も、とてつもない空間に吸い込まれて、こだまも返って、こないのではないかな? 静かである。ヨセミテ渓谷の方が、まだ人間の匂いがする。夜になれば、エル・キャピタンの岩にクライマーたちがビバーグしている光が、蛍のように灯る。ここでもそんなことがあるだろうか? あっても、それを見つけることができないくらい、ちいさなもののように思う。自然の方が、圧倒的に大きすぎる。ガイドさんが、このグランド・キャニオンの一番下の古い地層が、15億年前のものだと、教えてくれた。地球の歴史の3分の1がここにある。それは、この土地が、どんなに安定しているか、示すものであろうが、それにしても、ものすごい所だと、思った。

こんな断崖絶壁でも、谷底のコロラド川まで下りる道があり、宿泊施設もあるらしい。標高差1000M、私も、テレビで見たことがあるが、普通の人で、片道、10時間の行程。私なら…ビバーグしながら、3・4日の行程…、こんなこと、サポートしてくれる人の苦労を思うと、本当は口が裂けても言えないのだが、一度、自然のフィールドを体験してしまい、その醍醐味を知ってしまうと、観光スポットは、フィールドへのゲートに過ぎないように見えてしまう。悪い癖である。でも、乗馬を習って、muleを使えば…いえ、冗談です、本当に。

土産物屋により、次のスポット、ブライド・エンジェル展望台にバスで移動。私は、軽い頭痛に、見舞われた。高山病の初期症状だと思った。考えてみれば、海の近くを朝出てきて、プロペラ機は、高度3、000Mを飛んでいたように思う。そこで、1時間、空にいて、2000Mの大地。停滞時間も山の頂を極めるような登山に比べ、数時間と長い。グランド・キャニオンは、標高700mのラスベガスで、1日くらい、高度馴化してから来た方がいいかもしれない。

みんなで写真を撮り、夕暮れ迫るグランド・キャニオンを眺める。刻一刻と、色を変えていく岩肌。大きすぎて、音がない風景。いくら寒くても、ここで、たたずんでいたいと思った。風景が、灰色に藍色を少し混ぜたような色になる頃、「日がとっぷり暮れれば、グランド・キャニオンは真っ暗になる。」ガイドさんが教えてくれた。人の住んでいないところと言う意味かもしれない。古い丸太作りのロッジで、一息、暖を取り、次の目的地へ向かった。

ツアーの最後は、IMAXの映画で見るグランド・キャニオンの歴史であった。IMAXは、画面が大きく、近くで見ると、気分が悪くなるらしい。ガイドさんが教えてくれた。しかし、車椅子の席は、一番前。Oさんが、「上で一緒んに、見ましょう。」と、Oさんと、Hさんに両脇を抱えてもらい、高さにして、ビルの3階に相当するだろうか、一番上まで上り、真ん中に席をとった。階段をのぼっている間、いかにも大事そうに、支えてくれるので、少し恐縮してしまった。昔、私は、山に登ったこともあるといっても、誰が信じてくれるだろうか? 私は、精一杯の笑顔を作った。私は、体を動かすことが、好きな障害者だから、こうやって、上まで来ることができたが、本当に、歩けない人は大変だろうな、と思った。

映画は、グランド/キャニオンに関わりを持つ人々の、古代から現代までの歴史が、空撮など、迫力ある映像で、綴られていた。以前あった渓谷内の遊覧飛行は、現在は、騒音による野性生物への影響から、禁止されている。その代わりの映像ということらしい。私は、コロラド川を初めて、筏で下った人の物語りに、興味をそそられた。私も、カリフォルニアで、クラス5の瀬(頭の上から水をかぶるような瀬)は、下った経験があるが、クラス6の流れは、さらに激しく、船が見えなくなるくらい沈んでしまう場面があった。そういうところで、実際に当時と同じような服装で、撮影するのは勇気がいることであろう。

映画館を出ると、夜で、気温も0度近くまで、下がっていた。エア・ポートに向かい、一休み。休憩中は、ツアーの仲間と、和気藹々と、記念撮影などしていた。再び、プロペラ機に乗り込み、復路、ボルダー・シティへ。夜のフライトは、ひたすら寒かった。高度が高く、快晴で、放射冷却があると思う。うとうとと、眠りたいのだが、足元から、ジンジン冷えてきて、眠気も冷めてしまう。眼下は、真っ暗で、明かり一つない。その代わり、満点の星空。というよりは、星がありすぎて、ぶつぶつとデキモノのようである。こんなすごい夜空を眺めたのは、中学の時いった雲取山以来か? とても綺麗な、流れ星も流れたらしいが、見逃してしまった。飛揚機は、無事、着陸。地上の空気に、その暖かさとクリームのような濃さを感じた。

ここで、マイクロバスで帰るOさんたちと、お別れになるのだが、「今夜、一緒に、食事、しませんか?」と、お誘いいただき、10時に、私たちのホテルに、来ていただくことにした。何て、暖かい人たちなんだろうかと思った。そして、私たち3人は、車椅子タクシーで、ホテル・ルクソールへ向かった。このホテル・ルクソールは、Yちゃんが予約してくれたホテルで、ピラミッド型、おもしろい形のホテル。中は、空洞で真ん中にも柱もない。客室は、段々畑のように階段状で、エレベーターも、斜めに移動している。T君に、車椅子を押してもらい、英語のできるYちゃんにチェックインの手続きをしてもらい、部屋に向かった。部屋は、2ベッドで、広く、なかなか良かった。身支度を整え、10時にロビーへ。Oさんたちと、落ち合い、タクシー2台、ラスベガスに住んでいるHさんが、日本の居酒屋へ案内してくれた。

車で、5分くらいのshopping mall?の中の居酒屋は、混んでいたが、少し待ったら、席を作ってくれた。本当に、日本の居酒屋見たいなところだった。私にとっては、居酒屋は久しぶり。料理を頼み、簡単に自己紹介して、和やかな雰囲気のなかに、話を弾ませた。中でも、こちらに住んでいるHさんの夢のある話は、興味深かった。Hさん、私と、同じくらいの歳あるが、5年くらい前に、カジノの経営を学びに、アメリカに来て、夢は、日本で、認可が下りれば、カジノを経営したいとのこと。日本で、カジノというと、まだ、悪いイメージがある。本当のカジノは、大衆娯楽であるべきで、誰でも楽しめるカジノは、やるべきだ、というのが、彼の思いだ。私も、Tahoeにスキーに行けば、Rinoで、カジノを楽しむことがあるし、アメリカでは、朝から、スロットを楽しむお年寄りも、たくさんいる。そういう楽しみを日本に作ることが、彼の夢なのだ。本当に実現するためには、幾多の困難があるだろう、しかし、同世代である私も、大いに彼の話に引きつけられた。今は、大学を卒業し、ホテルのカジノで働いている。これからも、頑張って欲しいと思った。

おいしい料理と、楽しい話を、最後のラーメンで締め、ホテルに戻った。Hさん、ごちそうさま! Oさんたちは、障害のある私との旅は、大変だろうからと、明日も、一緒に、行動してくれることを約束して、分かれた。本当に、神様が呼んでくれた人たちではないかと思うくらい、ありがたかった。

ホテルに3人で戻ると、目が覚めてしまって、部屋に戻らず、ちょっとスロットをやった。私は、リノで、ちょっとかじっているので、すこし、分かる。Yちゃん、T君にも、経験させてあげたいし、台に$20札を突っこみ、やったが、当たりがこない。台を替えてやったが、ダメ。30分くらいやっただろうか、T君も別の台でやったが、なぜか当たりが来て、$5が、$60に増えていた。私は、自分の台を付き添ってくれていたYちゃんに渡すと、急に、当たりはじめ、$140(1万4千円)になった。まさに、Beginner's Luck。二人で2万円ほどの稼ぎ。ギャンブルの神様は、なぜか、初心者にやさしい。これ以上やると、そんすると思い。多少強引に切り上げた。Yちゃん、T君は、部屋に戻った後、再び出かけ、明け方4時ごろ帰ってきた。なかなか帰ってこないので、心配したが、ギャンブルはやらず、あちらこちら、見物して廻っていたらしい。ホッとする。

19日 Glitch 隙間

9時に、起床。他の2人は寝ていたが、シャワーを浴び、T君を起こす。昨日、食べる時間がなかったランチの卵サンドを食べさせてもらう。その後、トイレで、朝のお勤め。これが、私の朝のルーチン。行動に入ってから、模様しても、困る場合があるので。

11時にロビーへ下りると、Oさんたちが待っていた。6人と車椅子1台で、行動するので、わざわざワゴン車を借りてきてくれていた。すこし、申し訳ないような、頭の下がる思い。ちなみに、Oさん、ギャンブラーらしく、昨夜、スロットで、8万円勝ったらしい。桁の違う人である。みんな(私以外)、朝はまだだったので、最初に、Hさん、おすすめのIn'n Outというハンバーガーやへ行った。私も知らなかったが、ここのハンバーガーは、伝統的で、注文を受けてから焼き始める。なかに挟む野菜も、新鮮。私の場合、バーガーといえば、食べやすさを優先し、マックかジャックのペチャンコで、粘着力のあるチーズバーガーが専門で、こういう厚みがあって両手で抱えて食べるようなハンバーガーには、一人では手が出ない。今日は、奴隷?であるT君にナイフで少しずつ切ってもらって、口に入れてもらった。おいしかった。

つぎに、アウトレットに買い物に行った。買い物は、私の苦手分野である。Yちゃん、T君が、サンフランシスコに滞在していた時は、    バークレイを案内して、学生によく利用するカフェに連れていき、普通のアメリカ人学生の生活を肌で感じてもらったが、買い物となると、見当が付かなかった。だから、Hさんの申し出がとてもありがたかった。靴やTシャツの店を見て廻る。二人共、喜んでいた。私は、どちらかかというと、旅先で買い物はしない方である。もっと言えば、こういった車ではなく、飛行機や、他の交通手段を使った旅では、荷物を一つにすることは、鉄則であり、買い物は、荷物を増やし、後で泣きを見ることを意味する。今回は、ラスベガスーサンフランシスコ間の帰路は、一人を予定していた。(ちなみに、障害者が、飛行機などで、1人で旅することを、私はソロと呼びたい。実際、これは、まわりから、あまり好まれる行為ではないが、ソロの時の、緊張感・解放感は、一人で、カヤックを操り大河へ漕ぎ出すときの、それと、同じようなものだと思うのである。)だが、心やさしいOさん、私が何も買わないのに、見るに見かねて、Oさん自身とお揃いのトレーナーを買ってくれた。会社を経営して、リッチなOさんと、お揃いのものを着れるなんて、光栄であったが… (その夜のYちゃんには、パッキングにせいを出してもらうことになった。苦笑) Oさんの申し出を、無下に断ることもできないし、難しいなと、思った。買ってもらったトレーナーは、ボタンがなく、着やすく、私の普段着になっている。

アウトレットの次は、モール。ここで、色んな店に連れて行ってもらった。あまり、色んなところに連れて行ってもらったので、何も買わないのも、悪いので、丁度、買わなければならなかった冬物のセーターを2枚買った。途中から、Yちゃん・T君の若者グループは、別行動となり、私は、Oさんたちと、スタバでお茶をした。私は、経営者であるOさんに、仕事上の悩みなども相談したかったのだが、人ごみのなか、出会って2日目で、まだ私の言語障害になれていないOさんとの、意志の疎通は、困難であった。Oさんは、福祉にも、携わっていたらしく、私の手をさすり、「辛かっただろうな。」などとつぶやいた。私は、正直、男のおっさんに、そういうことをさせても、なんなのだが、(笑)、Oさんの手のひらは、おおらかで、温かく、きっと、とても苦労して生きてきた人なのだろうなあと、思った。私は、聞き手に廻っていた。会話の主導権は、本当は、聞き手が握っているとも言われるが。Oさんは、弱者として私の苦労してきた人生に、共感しているのかな? 本当は、障害者としていきる喜びや面白さも、見てほしいのに。そんなことをちょっと感じた。だけど、それは、非常に難しいことかもしれない。

5時になり、例の若者グループが戻ってきて、Oさんが泊まっているホテル・ベラジオに向かった。Oさんの部屋は、31階のペンタ・ハウスだった。ラスベガスの夜景が、一望でき、部屋も3つ、トイレも2つ、バーも付いていた。こんな部屋に入るのは、初めてだったので、とても感激だった。ただ、1泊10万円程度と聴き、意外と、夢でもないようにも思えた。こんなところに泊まれたら、いいなあと思った。一休みして、まずは、ベラジオ名物、踊る噴水を、見に行った。5分間のショーが、15分間隔、30分間隔で、演じられる。少し、待っている時間があった。通りの向うには、エッフェル塔、凱旋門、自由の女神などあった。ここは、ラスベガスだ。ふと見ると、通りに広告看板を載せたとラックが、その看板に、Gentlemen's Clubという文字が…私も、イギリスにいる頃、そちらの方に理解のある同僚に連れて行ってもらった記憶がある。もっとも、その頃は、毎朝、ヘルパーさんにシャワー介助を受けており、中には、若くて、金髪で、ほっそりした女優のようなヘルパーさんもいたような…もちろん、私のモノが、普通に敏感になっても、無視してくれたが。噴水の前では、誰にも気づかれず、そんな思いを廻らせていた。まあ、どうでも良いことである。が、OさんやHさんが、たまに内緒でする、そちら系の話に、いちいち反応していたのも、事実。でも、そういう欲望を見せることは、男同士の友情を築く上で、一番手っ取り早い方法の1つであるようにも思う。

程よく待って、噴水のショーが始まった。水だけでなく、ドライアイスみたいなものも使っているのか、白い煙が幻想的出会った。バレーを見ている感覚だろうか、リズミカルに踊るというより、バレーのような優雅さがあった。われらは、ショーを堪能した。

噴水から、Hさんが、息を切らせて、車椅子を押し、上り坂を上がってくれて、ホテルに戻った。華やかなシャンデリアをみ、カジノに入り、私の希望で、ルーレットをした。これまで、私は、カジノでは、スロットやキノ専門で、ルーレットなど、テーブルのものは、やったことがなかった。友達を誘っても、乗ってきてくれなかったし、何かしら、子供や弱者が入ることのできない世界のように感じていた。それを、破って見たかった。まず、私が、$40、$1チップに替え、適当に張った。Oさんと、Yさんも、参加した。ルーレットには、賭けかたが、何通りもある。1つの数字かけるやり方、隣り合う2つ、4つの数字、列、赤黒。だんだんとやり方が分かってきて、ちょっと夢中になったら、汗を掻いた。Yちゃん、T君にも、今まで食事など面倒見てもらったお礼を込めて、お小遣い$30ずつ、$2チップに替え、playしてもらった。本場のカジノで、遊ぶ機会などそうないように思う。少々当たりが来て、ドカッと、$60くらい入ったこともあるが、徐々に減っていき、なくなった。他の人が、プレーしていたので、あと$20、プレーしたが、結果は同じ。最後に$10、黒に掛けたら、赤に玉が入ってしまった。Oさんも、一度は、$100チップをもらっていたが、ダメだったようだ。Yちゃん、T君も、昨夜で、運を使い果たしたようで収穫ゼロ。カジノの遊び方としては、健全な方だったと思う。

ホテルのバフェで、夕食を取る。Hさんの社員証で、並ばなくて済んだ。バイキング形式で、私は、Oさん、T君のヘルプで、食べ物を取りに行った。バフェとくれば、私は、肉中心、レアのプライム・リブに、わさびであるホースラディッシュを添えたやつ。いつも、Tahoeでのスキーの後はこれを3・4枚食べるが、今日は、運動していないから、そこまでは、いかなかった。Oさんが、介助してくれた。だが、Oさん、介助に集中して、自分の方の箸は進まない。私が、「Oさんも、食べてください。」と手で差し示すと、「俺はいいから。」と怒られる。Oさんの真情としては、とにかく、相手に尽くすこと。本当に、温かい人柄なのだが、本当に友達なら、私が、Oさんに、気遣うことも、もう少し認めてほしいと思った。でも、まだ、偶然出会って、まだ、2日目、そこまで、求めるのは、無理な話かもしれない。

バフェにキノというくじがあったので、最後の運試しした。1から80の数字の中から、7つ数字を選び、$2を2回賭けて、プレイした。うまく、7つ当たれば、相当の金額が入るのだが、2個しか当たらず、リターンなし。悔しいので、その紙で紙飛行機を折った。Oさんは、横で、「この子は、昔、手の訓練で、泣きながら、折り紙を折っていたんだと、思うよ。」と、みんなに語った。確かに、小さい頃、手の訓練や、文字の練習で、泣いた覚えはある。それにしても、嫌で泣いたというより、できない自分が悔しくて泣いた方だし、折り紙や紙飛行機は、大好きだった。初めて、自分で自分なりのつるを折れたときの感動は、今でも覚えている。私は、「そうですね。」と笑いながら首を縦に振ることも、できたと思う。だけど、そうしたら、Oさんが、私にとって、単に、通りすがりのおっさんになってしまうようにも、思えた。私は、ちょっと、意地悪く、首を横に振った。Oさんは、「おお、そうか。」と意表を付かれた感じで言ったが。果たして、これで良かったのかどうか、私には、分からないが。

食事を終え、再び、31階のOさんたちの部屋へいく。明日は、我々3人は、空港で別れ、YちゃんとT君は、ロスへ、私は、サンフランシスコへ戻ることになっていた。これは、ちょっとした冒険だが、過去に、一人で飛んで、家まで、帰ったことは、何回かある。違うところは、車椅子が電動か手押しかというところ。電動なら、空港からBARTと言う地下鉄と、それに連絡している列車で、家まで、楽勝で帰ることができる。しかし、手押しだと、空港の職員が押してくれ、バンのところまで連れて行ってもらわなければならない。そして、飛行機のフライトは、遅れることがある。そのため、到着時に、バンの会社に電話をしれなければ、ならなかった。これを車椅子を押してくれる係員にやってもらわなければ、ならない。バンを予約したときのメールには予約番号、電話番号、その他諸々の情報が乗っているが。これは、もとはと言えば、私の段取りが悪いのであるが…。しかし、偶然とは、恐ろしい、ありがたいもの?である。なんと、Oさん、Yさんが明日、朝、サンフランシスコ経由で帰る便と、私が乗る便が同じであることが分かった。そこで、私は、すこし、無理な、度を過ぎたお願いと思ったが、同じ便なので、サン・フランシスコ空港まで、一緒に行き、私が、バンに乗るのを見届けてほしい、と、お願いした。完全に、私は、Oさんたちの厚意に漬け込んでいたと思う。Oさんたちは、はじめ驚いていたが、協力してくれた。Hさんからは、「自分も、チャレンジャーやな〜」と言われてしまったが、Hさんが、予約の紙から電話番号と、予約番号を写し取り、予約の紙の裏に、for emergencyとして、自分の電話番号を書いてくれた。本当に、奇跡のようで、ありがたかった。

私は、その他、会社の人にも、万一に備えて、バンの電話番号を伝えてあるし、知らない人と、コミュニケーションするために、ラップトップも持参していた。だが、それは、最終手段であった。私も、ここまでくると、弱いところ、人を信じられないところがあった。

そして、お礼をいい、明日、5:45分にロビーに迎えにきてもらうことにして、我々、3人は、タクシーで帰り、部屋に戻った。部屋に戻ってから、3人で、話した。 Yちゃんは、「Oさんたちがいなかったら、勇くんを階段の下の展望台まで、連れていくこと、なんてできなかった。」と初めて、胸の内を明かしてくれ、「なにか、お礼がしたい、レンタカー代くらい、本当は、うちで払いたいんだけど。」と言った。「だけど、お金は、受け取ってもらえなそうだし、位が、違いすぎるでしょう。」とT君。私も同じ気持ちだった。色々面倒を見てもらって、こちらからは、何もできない虚しさは、私だけのものでなく、Yちゃんも、T君も感じていたのだ。そのことに、私は、少し、驚き、安堵した。結局、感謝の気持ちとして、3人で、ちょっとしたものと、短い手紙を、感謝の気持ちとして、渡すことにした。Yちゃんは、今回の旅に、よほど感動したのか、涙を浮かべていた。

20日 Final Decision 最終決断

約束どおり、5:45にロビーへ、下りて、チェックアウトを済ませる。Oさんたちは、少し遅れてきて、一緒に空港へ向かった。空港は、意外と混んでおり、チェックインに手間取って、7時近くになってしまった。その上、我々のサンフランシスコ便が遅れている。手紙と、チョコレートを、Oさんたちに渡す。Yちゃん、T君をボディ・チェックのところまで、送る。Yちゃんは、別れ惜しいのか、涙を少し浮かべたが直ぐに人ごみの中へ消えた。私たちは、外へ出て、一服したが、時間に余裕を見ていこうと、ボディ・チェックを通った。Hさんも、特別の許可を得て、ゲートまで付き添ってくれた。ボディチェックは、私たちは、車椅子のラインで早かった。Yちゃんたちをまた、合ってしまった。彼らの機の搭乗アナウンスが流れ、急いでいった。心配になって、Hさんも付いて行ってくれた。最後まで、世話をやかせる奴らだ。まあ、私も、全然、まったく人のこと言えた義理ではないのだが。

我々のフライトを確認すると、9:20 出発になっていた。時間があるので、4人で朝飯をファースト・フード店でとる。またも、ごちそうさまでした。Oさんに、食べさせてもらい、左にいた美人のYさんに口を拭いて、もらい、ちょっとニヤけたら、早速、OさんとHさんから、「反応しすぎ。」だと、きつい突っこみを入れられてしまった。いや、男なら、当然の反応だろうと思うのだが。

ゲートで、Hさんとも別れて、機上の人となる。席は、フライト・アテンダントの厚意で、2列目をを3つ空けてもらい、Oさんたちと一緒に座ることができた。飛行機が離陸する前、Oさんが、私に語りかけてきた。「俺ら、ボルダーの空港で、初めて、勇くんを見たとき、俺ら、Yちゃん、T君、なんで、勇くんを放っておくのか、なんで、もっと、声を掛けてやらないのか、もっと、面倒を見てやらんのか、とても気になってた。だけど、勇くんたちと、付き合っていく中で、分かったんや。彼らは、ただ、勇くんを、自立したお兄ちゃんとして見ていただけなんや。わしらが間違っておった。」と言ってくれた。それを聞いて、私は、うれしくなった。やはり、時が解決してくれた。時間を掛ければ、理解し合える。そして、3人は、心地よい眠りに入っていった。

目が覚めたら、機内サービスはすでに、終わっていた、パーサーと目が合ったら、「なにか、飲むか?」という仕草をしたので、いらないと、答えた。フライトも後半。カリフォルニアに入ったのだろう、眼下に、真新しく雪を頂いたシエラの山並が美しい。3、000m、4、000m級の山々である。時間を見ると、10時半を廻った頃か? だとすると、サンフランシスコに着くのが11時、Oさんたちの関空行きの出発が11時半。とすると、Oさんたちは、乗換時間が、限られ、私のことなどかまっていられないはず。Oさんたちも目を覚ました。と、パーサーとフライト・アテンダントが、乗客の中から英語も日本語もできる日本人の初老の女性を連れてきた。「あなたは、お一人ですか?それとも、お3方、ご一緒?」と尋いてきた。パーサーが、「travel together, or separated and on your own?」と。私は、パーサーに向かって、「on my own」と答えた。今まで。散々世話になった人たちに、残酷なようだが、「この人たちとは、別です。」と。そして、用意しておいたフライト・アテンダントに当てた手紙、バンの予約の紙などを渡し、到着したら、車椅子を押してくれる人が、必要なことを伝えた。横で様子を見守っていたOさんが、「空港に着いたら、バンに電話をせな、あかんのです。」と通訳の人を介して伝えてくれた。パーサーとフライト・アテンダントが、私からの手紙、ドキュメントに目を通していたが、すこしたって、OKのサインが。すべては、了承された。私は、この人たちは、信用できると感じ、顔に万遍の笑みを浮かべ、最高の感謝の意を表し、パーサー、フライト・アテンダント、通訳してくれた女性に固い握手を求めた。パーサー、フライト・アテンダント、通訳してくれた女性も、それに、熱く答えてくれた。障害者ならではの光景。横で、その一部始終を見ていたOさんが、その私の、極めて大きいなジェスチャーが、ある種の演技だと、分かったらしく、吹き出しそうになるのをこらえながら、私の耳元で、「うまい!」「役者になれるでえ」とささやいてくれた。Oさんから、最高の褒め言葉をもらったような気がして、本当にうれしかった。

「大阪便に、乗り継ぎの皆様、出発時間が迫っておりますので、お急ぎください。」と、着陸前にアナウンスが流れ、機は、サンフランシスコ空港に到着した。最終決断は下さた。Oさん、Yさんは、私と、固く長い握手を交わし、Oさんは、明るい声で、私に、「先、行くでえ」と告げ、飛行機のドアが開くと同時に、飛び出していた。これが、Oさんと私の行った今回の旅で最大のギャンブルかもしれない。清々しさだけが後に残った。

一人残された形の私、不思議と不安は、全くなかった。他の乗客が飛行機から降り、アイルチェアーが運ばれ、私が降り、自分の車椅子に乗り換えた。フライト・アテンダントから、車椅子を押してくれる地上職員に、ドキュメントとインストラクションが伝えられた。職員は、私をバンの乗り場に連れていき、そこの警備員事務所から電話を掛けてくれた。その間20分くらいだろうか?、電話は、一度では、つながらなかったが、場所を替え、Info Deskに問い合わせたりして親切に対応してくれた。私は、Hさんに応援を頼もうとも思ったが、職員は、私が喋れないと思い込んでいる。私は、私が彼と会話をはじめ、彼を混乱させるより、彼主導でやってもらった方がよいと、判断した。三回目の電話で、ようやくつながり、20分後、バンが来て、私は、自宅にたどり着くことができた。

後日、Oさんからメールがきて、
「サンフランシスコで飛行機を降りる前、本気で家まで送り届けようかと悩みましたが、勇くんに関わる人達を信じてみようと思い、後ろ髪を引かれながら行きました。降りる寸前まで勇くんの手を握っていたのは逆に僕が不安だったかもしれません。勇くんの目を見ていると力が湧き、何かのエネルギーを沢山分け与えて頂きました。」

と、語ってくれた。私も、まったく同じ気持ちである。なにか、特別なエネルギーをもらうことができた旅だった。

ありがとうございます。

この物語を、Oさん、Hさん、Yさんに、捧げたいと思います。

おわり

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2008/11/10

天竺じゃ

朝、初めて行く歯医者にwebを使ってアポイントを取ってみた。

1時間後、私が言語障害だと知らず、事務の人から、電話があった。

私の言語障害の英語で受け答えしていたら、明日2時に、予約が取れてしまった。

細かいところはあとから、メールすればよい。明日の初診は、バスでいこう。

ここは、どこかの国と違って、天竺みたいなところですね。(ここだけ見れば。)

やはり、経典などを持ち帰った方がいいかな? 何か、リクエストあれば、どうぞ。

参考資料:『勇気ある行動

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2008/11/09

さっき

さっき、広場のところを、走っていたら、

リスが、木の枝を、口にくわえて、移動中だった。

時々止まって、後ろ足で、立って、広場の方を眺めている。

その木の枝には、黄緑色の大きなはが、2つ3つ。

その光景が、何とも、かわいらしく、心に焼き付けた。

日本の皆様、画像がなくて、ごめんなさい!


こういうとき、専属のアシスタントが、欲しくなる。

何?
「いつも、カメラ持ち歩いて、通りがかりの人に、頼め!」
だって?

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障碍者だから

障碍者だから

希少生物なのだから、

多少、ハメを外して生きてても、

いいよね。

多くの人が、苦しみを表現している。

それは、必要なことかもしれないけど、

楽しさを、表現しても、よいではないか。

原点に、立ち返ろう。もう少し強くなって。 

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2008/11/05

ひねくれ者

オバマが、勝った史上初の黒人大統領。

黒人のテレビ・リーポーターが涙を流しながら、リポートしていたのが印象的。

まあ、人種で、大統領、選ぶ時代ではないと思うんだけど。

いまいち、このお祭りに乗れない自分がいる。

もう20年以上前、高校のころ、車椅子の物理学者、ホーキング博士が登場して、私は、熱狂的なファンになった。
これで、世界が変わる、障害者として、もうバカにされなくてすむ、本気でそう思った。

ところが、そうやって生きていく中で、こんなこともあった。
http://www.geocities.com/isamush01/essay_25d.html

言ってしまえば、天国と地獄。

まあ、若い大統領には、前例もあるし、お手並み拝見といきましょうか?

こんな生意気な口を聞いてはいけないんだけど。

歴史は、直ぐには、動かない。愚行も繰り返される。だけど、同時に、ゆっくりと、着実に、動く、人々の勇気と智慧で。 

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追記:
(mixiの方にコメントをくれた方がいて、私もレスしたので、そのレスを転記します。)

この日記は、本当に、個人的なものです。

オバマ氏は、20代の頃から、シカゴの極貧街で、仕事をしてきた人のようですし、もしかしたら、リンカーンやJFKにも匹敵する人物かもしれません。(この二人、銃弾に倒れているんですけど。苦笑)

昨日、テレビを観ていたら、黒人の男性が、さも、誇らしげに、街を闊歩している姿が、映し出されて、こちらまで、とてもうれしくなりました。

私が、まだ20代の頃だったら、諸手を上げて、オバマ・ファンになると思います。今も、彼を尊敬していますが、若い頃と違って、ちょっと、斜に構えてしまうことがありますね。

人には、1人ずつ、役割というか、そういうものがあると思います。人の真似をどううまくやろうが、人が違えば、できること、できないこと、出てくると、思います。「あいつに、できたんだから、俺も。」と、若い頃は、思って、頑張るのですが、大抵は、うまくいきません。

だから、…自分の役割を探していこうと思います。

だけどさ、素直に人の成功を、心の底から、喜べない自分って、何なんでしょうね?

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2008/11/02

お蔵だし

バークレイ在住の大昔に作った、俳句をいくつか…
これに、似合う写真や画像をお持ちでしたら、ぜひお寄せ下さい。

碧い海

映える、S.F.

君、いずこ

Summer, 1995


君、去りて

夢だけ、残り

秋、深し

Fall, 1995

もう、遠い遠い遠い、昔のことです。
(この俳句のバックグラウンドについて知りたい方、コメントを。なんちゃって)

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